変化と不変

この間、良くやり取りしている「師匠」からこんな話をもらいました。
「久石さんがシンセやフェアライト中心のエレクトリックなサウンドから、ピアノ中心のアコースティックなサウンドへ移行した時に、それまでのファンが離れて新しいファンが付きましたが、今もそういうファン層が変わって行く時期なんだと思います。」
僕もそのとおりだと思ったんですが、直後に、ドラゴンクエストの音楽が頭をよぎりました。
ドラクエは前々から好きでコンサートも行ける時は必ず行くようにしてます。今月末も東京芸術劇場でVIIIのコンサートがあるので、そちらに出撃予定です。
で、確か去年の夏のコンサートでドラクエのファミリークラシックコンサートが20回の節目を迎えて、すぎやまさんの「オーケストラのスタイルを変えずにこだわってやってきたからこそ、ここまで来れた」ということを話されていたのを思い起こしました。
正直な話をすると、それまでは「常に進化、変化を遂げていく」というスタイルの方が僕の中の評価としては高くて、すぎやまさんの「不変」のスタイルの評価はそれほど高いものではありませんでした。
でも、よくよく師匠の話を考えてみたら、僕らファンっていうのはそのファンになった瞬間に感じていた物事をベースにその後の作品を感じ取っていくんだ、という視点が抜けていたのに気付いたわけです。
もうちょっと分かりやすく言うと、僕自身、久石さんのファンになったのはもののけ姫公開のちょっと前(96、97年くらい)なんですが、その時期はやはり宮崎駿監督作品のメロディが頭に強く残っているわけで、「アシタカとサン」のようなピアノの素朴な強いメロディとか、「天空の城ラピュタ」のようなシンセとアコースティックが入り交じった曲調を期待してしまうわけです。
もっと前の方は「シンセの久石」と一時は言われていたそうですが、「Syntax Error」とか「α Bet City」とかのミニマルとシンセにクラクラして、それを期待する人も中にはいらっしゃると思います。
そんな中、久石さんは常に変化、進化を求めてシンセからアコースティック、そしてオーケストラと変遷しているから、だからこそファンも移り変わっていくっていう考え方は確かにその通りだと感じたわけです。
常に新たなものを取り入れながら変化していくスタイルって大変なことだしすごいなぁと思うんですが、聴く側からすると、インパクトを受けた時の記憶ってのは変わらないわけで、それを基準にしてしまうと「?」ってなってしまうのは致し方ないところではあるんだろうなと思います。でも、逆に最近のファンの人は、その時期に「おぉ、凄い!」とリアルタイムに感じることができることになりますよね。だから、たまにファン歴の短い人がうらやましく感じる時があります(苦笑)。
そんな風に考えると、「不変である」ってのも、逆にものすごいことだなぁと改めて感じたわけです。どうしても新しいものを取り入れたり、変化を求めてみたりしがちなんですが、「交響組曲ドラゴンクエスト」はそれをしなかったってのが、逆に凄いことなんだなと思えたわけです。
だって、ドラクエIIIとかで感動した音楽がコンサートで披露されると常に同じメロディが聴ける安心感があるわけです(ま、それを言うならファミコンの音で流してくれよ、っておっしゃる方もいると思いますが…苦笑)。不変だから、そのまま過去のことが思い起こせるっていう部分があるんだっていうことを、そしてこれからも変わらず聴けるってことが凄いことなんだなということを今さらながら感じたわけです。
だからこそ、「常に変わらないスタイル」にこだわることも、大切な一つのスタイルなんだなって感じました。これは、J-POPでも活躍され、長い経歴のあるすぎやまさんだからこそ、なのかも知れませんが。
なんか長い日記になっちゃいました。「変化」と「不変」、性質は全く逆なものですけど、それぞれ大切なことなのだなって感じることができました。「変化」する力も凄くパワーが必要ですし、一方「不変」を維持するということもこれまたたくさんのパワーを求められるでしょう。
僕ってそのどちらなんでしょうね。「不変」側のタイプかな?
2006年01月15日(日)
No.394

ショー@オーナー
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