ギリギリの結合
「崖の上のポニョ」が興行収入100億円を突破したそうです。邦画での100億突破は「ハウルの動く城」以来4年ぶり、全体では昨年の「パイレーツ・オブ・カリビアン ワールド・エンド」以来だそうです。観客動員数も843万人。ものすごい人数が観ているんですね。中にはリピーターもいるとは思いますが…
【YOMIURI ONLINE】アニメ映画「崖の上のポニョ」、興行収入100億円を突破
【NIKKEI NET】東宝配給「崖の上のポニョ」、興行収入100億円突破
宮崎監督のシナリオの構成について「全然ストーリーがつながってない」とか、「説明が足らない」とかというハウルの時と同じような話を目にする機会がありました。確かに宮崎監督が作ったシナリオを、「宮崎駿」という名前を伏せられて見たら、『意味不明』という評価をされる可能性があると思います。
ま、「宮崎駿」という人が作ったから、という部分ももちろんあるでしょうけど、もし、シナリオの筋をしっかり組み立て、説明もしっかりして分かりやすいものにしたら、映画作品としてどうなるのかなと最近考えています。分かりやすいとは思うんだけれど、素直すぎて面白くなかったりするするのかなと。
映画作品として、何とか構成できるようなつながり方というか、「こういう持って行き方も有りか?」というようなギリギリの部分をバランス良く構成することによって、新たな映画作品を作り出す作家性が全面に押し出されているのかなと思うんです。宮崎監督はあくまで映画という「映像」の作り手だし、ストーリーテラーではない。ただ、ストーリーも素直にそのまま進んだら面白くもない。
映像とストーリーがギリギリのバランスで共生するような作品になるために、監督が映画の奴隷となって、”映画が映画になろうとする”ための手助けをするっていう話をしているのを聞いて、最近、妙に納得するようになりました。
例えば詩を作るにしても、ありきたりな単語を連ねて修飾させたところで、なかなか新たなものは生み出されないけど、普通は結びつかないような単語を結びつかせることによって、新たな世界を作り出せるかも知れないですよね。「何だろうこれは?」というような不可思議な部分から生まれる世界って、何かあるような気がする。
この視点って今までのボクにはほとんど無かったなあと振り返っているところです。だから、実際に体験したことのレポートはある程度書けるけれど、創作したものについては全然創作じゃなく面白くない(笑…ホームページのどこかに創作的なものが転がって放置してますが…)。
100億と全然違う話になっちゃいました(笑)。でも、NHKの特番を観て、中盤にポニョの夫人と赤ん坊が出てくるシーンに込められている意図を目の当たりにして、ボクには「ストーリーがメチャクチャ」なんてことは到底思えません。映画館で観たとき、このシーンに違和感を感じ、そもそも入れる必要性なんてあるのかなと感じていたので、テレビを観たときのその深い演出意図に感心しきりでした。でも、そんなの分からなくても、楽しめればOKですもんね。
そういった意味で、これだけの興行収入は、多くの人が楽しんでいるひとつのバロメーターなのかなと思います。