宮崎駿・井庭崇対論 NHK特番(1999年12月20日放送)

〜日本人はいまどこにいるのか〜(アップ第3回目)
『複雑系の意義とニヒリズム』

宮崎「うーん…たとえば、非常に上手に出来たアニメーションスタジオ用のモデルが作れたとするじゃないですか。ジブリをずっと観察してね、ああでもない、こうでもないといろいろやっているうちに非常にジブリの行動が良く伝わるような、分かるようなモデルが出来たとしますよね。それを当てはめて、じゃ、そのモデルを作った人間じゃなくて、それをモデルとして渡された人間がね、会社の運営の責任者になった時にそろそろここら辺の問題が発生するはずだから、ここのところに手を打っておこういう風に、例えばそのモデルを使ってやり始めるでしょ。人間って大体、そうなりますから。実際に観察しないで、もう。観察下に問題が起こっているから、ここのところはちょっと混ぜておいた方がいいなとか。という風な方向にはいかない? ってことだと思うけど…(笑)」
 ※ 下線部分は聞き取りがちゃんと出来ていません。あしからず。
井庭「そうですね。そういう風な使われ方をする可能性はあるんですが、だから絶えず僕たちはモデルを発表していったり、作っていくと同時に、そうではなくて現実と照らし合わせることが重要なんだと伝えていかなければならないと思うんですよ。で、自分の手に入れたモデルと自分の組織とを照らし合わせながら、どこに共通点があって、どこが違うのかと見つめることによって、ただ単に予測とかのために使うのではなくて、理解の補助にするとか、あるいは自分の組織のことをまたモデル化するとか、そういったことが必要になってくると思うんですよね。」
宮崎「そうすると、経営者とかを集めてね、大体、組織の中でこのくらいの働かない部分が出て、これをどう退治するかによって企業の利潤率が上がるんですって、そのリストラのためのね、イデオロギー的根拠を与えるような作業に簡単に使われてしまうのじゃないかなと気がするんだよね。今の社会で認められているものがあるじゃないですか、利潤を追求するとか、みんなで生き生きすることだとか。その二つの目的がね、大体良いのかってね。会社を例えば残しておくとかね、それは生活のためにいるんだとか、いろんないろんな言い方があると思うんですけども、本当にそうなのと。根源的なそこを問題から外しておいて、利潤を追求するのが正しいことだと前提にした時にシュミレーションが作れると思うんですけども、利潤を追求するということが人間にふさわしくないじゃないかという持ち方をしたとたんに、そのモデルは成立するのかということなんですよ。例えば、人工市場、人工マーケットを作るっていうのは一見面白いんだけど、マーケットそのものはくだらないんだといった瞬間にどうなっちゃうんだろうなとかね。」
井庭「マーケットそのものがくだらないと思っても、現実にはそれで動いてるとなるとそれはやっぱり考えていかなければ……」
宮崎「くだらないものが動いているだけで、勝手に行き詰まるとかね(笑)。」
井庭「でもそれによって、結構人間社会ってのが回ってたり、自分が生きていたりとか…」
宮崎「そう、そんなんです。」
井庭「そうなんですよね。例えば今、野菜を食べて、肉を食べてっていうのを自分でやるかっていうと出来ないから経済的に分割されて……」
宮崎「でも自分でできる範囲のことはやろうという生き方がありますよね。ま、本当に少数だけれども、やろうという努力は始まりますよね。」
井庭「ただ、その上でも市場なりが残ったりとかすると思うんですよね……」
宮崎「その人間たちは、例えばたくさんの観察の対象の中を見ると、0.01パーセントくらいそういう人間が出てくるっていうような数式になるんでしょうかね(笑)。」
井庭「なるんでしょうかね… 心理変化というのは難しいとは思うんですけど…」

宮崎
「とにかく、組織というのは目標を持っているわけで、映画を作るっていう目標があるわけですよね。目標がある組織ってこと自体が、実は非人間的なんじゃないかなと思うことあります。」
井庭「なかなか、両方を両立させなければならないっていうのは難しいところですよね。」
宮崎「多分、人間という生き物が出来てね、生きていく時に村なり家族なりが目的もっているとしたら、生きていくっていうことだけでしょ、たぶん。その村が生き生きするためにやろうとか、その村が立派なお祭をやるためにこの村があるんだなとは思わないですよね。そういう次元では、多分ほとんどの人は、その組織が生き生きしているとか、村の中が元気だなあとか気にしないで済んだんですよ。それを気にして、生き生きしなきゃいけないとか生産力を持っていなきゃいけないとかなった途端に、多分7割から8割の人間がそれになじまないんだと思うんですよね。だから、今、組織が古びたり、保守的になったり、形式主義になったりとするのは悪だとされていますけど、生き生きしてて、活動的でワサワサやっているのが善とされているけど、本当にそうなのかなと思うと、僕らの社会の形そのものの中に実は問題があって、それでみんなきつい思いをして生きているのを表しているだけなんじゃないかなと思うんです(笑)。だから、映画を作らなきゃいけないからそう思うわけで、映画を作らなくていいんだということになれば違うんだと思うんですけどね。」
井庭「でも、組織とか社会が必ず持っているものですよね、その問題というのは。」
宮崎「そうなっちゃったんですよね。そういう風な仕組みで世の中が組み立ってるから、みんなアグレッシブに、あるいは前向きにね、やんなきゃいけないっていう。だから前向きになっているか、精神病院に入っているかっていうようなアメリカ社会みたいになっちゃうんですだよね。ちっともうらやましくないですよね。模造紙の穴の部分をちゃんと僕らは残しておいた方がいいと思うんですけれども(笑)。でも、いざね、映画に入ろうとすると、これじゃいかんなと思ってあっち突付いたり、こっち突付いたりね…」
井庭「大体スタッフはどのくらいのスパンでアニメーションに関わっているんですか。」
宮崎「長編はね、みんなグズになったものですから、一番グズになったのは絵コンテ切っている僕なんですけど、今これから入ろうとしているのは来年(2000年)の頭から入って、再来年(2001年)の夏の公開に間に合わせる作品なんですけど、もう短くて困ったなって言っている。こういうことやっているとあっという間に人生終わるんですよね。よく職場で話すんですけど、僕は50代を終わろうとしている人間ですから、そういう人間の一年間とね、20代の一年間とは全然違うでしょ。ジジイがこういう映画を作ろうと決めて、2年間奪っちゃうわけですよ(笑)。そうするとね、その奪われた2年間はね、2時間の映画分にしかならないんですよね。でも、映画に参加しなくて他の事やっていれば意味ある人生を送ったのかと言われれば、それはそれでまた分からないですよね。」
井庭「そうですね。」
宮崎「それはやっぱり、個々に任せるしかない。いや、多分僕はややこしいことを言ってる感じがするんだけど、ややこしい事を言っているんじゃなくて、どうも人の世っていうのはこういうものだっていうような考え方っていうの方がね… 複雑系っていう形で何か捕まえようっていうようなことをされている方にはなんだけど……(笑)」
井庭「それに近いものがあると思います、その考え方に。」
宮崎「人の世っていうのはそういうもので、進歩に対する進行があるからじゃないかと言われると、確かにそうなんですよ。そういうものを否定していながら、それにどっぷり使っているんですよね。開発反対主義者のはずなのに、どこかに旅行に行くと仲間に、『この村、どうしたら良いんだろうね』『あそこのところに土産物屋を作って…』どうのこうのという開発の話をしているとかってね。『この通りをもっと活かして、車なんか入れないでおけば人が来るんじゃないかな』とかね。開発の話ですよね。だいたいそこら辺で生きている輩なんですよ、僕らは。偉そうなことは全然言う気はないんですけど…
    いろんな問題がいっぱいあるでしょ。そうするといつも思うんだけど、その度にフィールドを変えて話しているんですよね。それはまさに井庭さんが指摘している問題なんですけど、例えば人類全体の問題なると人口爆発の問題があってという話になるでしょ。その時に日本っていう問題はどこかにいなくなるんですよね。人類、あるいは地球上の問題とか、果ては3000万年ごとに彗星がぶつかるんだとかね。そういうスケールの話になって、あるいは深層海流がね、こういう風に複雑系で動いてねっていう…(笑) 大陸の移動と深層海流の変化で1万年の安定期があったんだとかね。それが農耕文明そのものだとか、そんなような話になると頭がくらくらするだけど、そういう話の時にはそういう話をしている。日本の話になると、世界の中の日本の話になっちゃう。日本のやり方がまずいんじゃないかとか、日本が停滞しているんじゃないかとかって話になる。でも停滞しようが、まずかろうが上手くいこうがね、地球全体があるいは人類全体がね破局に向かって進んでいるって問題になると、『何だ、破局の一部じゃないか』ということになるでしょ。でもそういう視点では絶対話できないですよね、だけどね。そうすると結局、一種のニヒリズムが拡大するだけだから、とりあえず日本の傾向について話すでしょ。ジブリの中身の話をしていると、日本の傾向よりもジブリそのものの話で、これと人類がどこ行くんだという話をとりあえず分けてしまいますよね。期間を切ったり。この映画を作るため、とかね。みんな切っているじゃないですか。教育問題って限定しちゃうと、この子がどこの学校には入れるのか、入れないのかとか、この成績何とかしなきゃいけないという風に限定してするじゃないですか。何か一貫しないで全部分けちゃう。違う脳みその部分で話をしている、考えてる、スイッチを切り替えているだけなんですよね。カチンカチンって。そういうのを感じませんか。僕は、自分自身がそういうのを感じてね…」
井庭「ありますね。やっぱり総論はオッケーだけど各論はダメとか、こっちではいいと言っているけど、こっちでは…というのは…」
宮崎「まあ、例えば日本という産業社会がね、高度の産業社会を、しかも高能率を誇っているつもりだったのが、いろんな問題を発生させてしまったとかね、今受け取られているけれども、これはある意味では高度に発達した効率のいい産業社会というのは実は幻影であって、そんなもの人類にそぐわないんだと。でもほったらかしにするとどうなるんだというと、みんな貧乏になるだけですよと(笑)。貧乏困るじゃないですかというと、それがいけないんだよという(笑)。みんなで清貧をやりましょうという風な話になると、話は噛み合わないことになりますでしょう。」
井庭「そうですね。生活レベルの質を落とすということがなかなか出来なくなったりとか……」
宮崎「ええ。だけど、放っておけばなるよっていうようにね。だってみんな100円ショップにせっせと通ってね、今日はメシは150円で済んだとか豪語しているヤツが職場にいますから(笑)。だから上手に分ける方法ばかり心得てしまう。それがね、僕自身が新しい人たちと毎年毎年出会って感じることなんですけど、自分が体験した経験と、前経験したことを、その体験を総合しない。要するに何とかモードってヤツですよ。パチンと切り替える。ホントに切り替えが上手になってて、自分で好きな絵を書いているときはずい分のびのびした絵を書いているのが、ひとたび職場でこの絵を書けと言われたら突然コチコチになる。それで、家で自分が好きで書いている絵と、職場で書いている絵と総合されない。モードを切り替えているからですよね。だから、人類を論じる時にはこっちに切り替える、家庭内の話をする時はこっちに切り替える。恋愛についてはこっちに切り替える。切り替えスイッチがいっぱいあるだけでっていうように感じます。だからそれを突破する話し方っていうか、考え方とかそういうものは自分自身も組み立てられるのか、組み立てると、ひょっとすると(地球人口は)100億人にはならないでしょうけど、大災害が起こるだろうから風な話をすると、それについて話すとニヒリズムになるだけだからこのくらいに限定して、せいぜい日本の政治・経済の問題について話をしていきましょうと風にすると、どこかではまりきらない部分を抱えている。そのうそ臭さを子供は見抜く。親はとりあえず勉強できた方が良いとか、とりあえずあの学校入りなさいと言う。とりあえずですよね。とりあえずじゃなくて本当のところどうなのと言うと、そこまでは聞いてくれるなって親は煙幕張っているわけでしょ。そんな難しいこと考えなくて良いっていう風に。それは子供たちがもっている本能的な不信ですよ、今の大人に持っている。大人の言う通りにやってもろくな事にならないっていう。ちゃんとはっきり見抜いている。大人はそれをばら撒いて歩いているから。」

    実際の放送と若干異なる場合がありますが、会話の内容自体は変わっておりません。また、聞き取りが出来ない部分があったんですが、内容自体は分かると思いますので、その点はご了承下さい。

 

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