宮崎駿・井庭崇対論 NHK特番(1999年12月20日放送)
〜日本人はいまどこにいるのか〜(アップ第2回目)
『組織・人間の意志』
宮崎「ただ、スタッフっていうのは…これがね、井庭さんがおっしゃった通りなんですよ。全く同じメンバーが集まっているのに生きものとしては全然違うんですよね。その時期によって、その歴史的な過程によって…ってどこもそうなんだけど。放っといていてもみんなが元気な時ってあるんですよね。僕は3作品3年って言っているんですけど、一つのスタジオで最初から3本目までは元気で、3年間は放っておいても元気。それを過ぎるとどんどんつまらないものが増えていく。良くするためにこういう方法を取ろうといった方法が呪縛になって、つまらない形式主義になって、会議ばっかり増えていくとかね。そういう風にたちまちなっていく。そうすると実際に映画は作れないですよね。…作れますよ、作れるんですけど、非常に嫌な感じの作り方になるから、職場として魅力がなくなる。もうみんな元気のない顔をしているという風になりますからね。」
井庭「組織として元気があるとか、生き生きしているっていうのを保つ秘訣というのは何かその中であるんでしょうか。」
宮崎「それを今、教えてもらいたいんですけど…(笑) 井庭さんが考える時にね、たとえば1000人の組織があったとするでしょ。そのうち、何割の人間がだいたい健康に毎日を積極的に生きていることによって、その組織は健康だと思いますか。」
井庭「いや、難しいですけどね…」
宮崎「例えばね、9割の人間が健康ならばその組織は健康なのか。実はそういう問題だと思うんです、僕は。それは業種とか組織によって違うと思うんですけど。例えば映画を作るって場合でも、1人の人間が1年間関わると、この時期は本当に生産量が落ちていて、落ちているだけでなく上の空になっていてね、恋をしているとか振られたとかの問題でジタバタしていて、その時は本当に役に立たない。何を描いてんだ、この馬鹿野郎と、そういうレベルなんだけど、何か最近元気になったねって感じになったとするでしょ。そうすると、その人間は1年なり1年半の期間のある時期はダメだけど、ある時期は良い。ところがそいつが駄目な時には、良い時期になっているやつがいて、みんなが良くなってきたらそいつはダメになってきたとか、そういうことがいっぱいあるわけですよ。そうすると、その瞬間っていうのは切り取れないわけですよね。なおさらややこしくなるわけでしょ。そうすると、それは数式化できるんですか。」
井庭「それが今、『挑戦』なんですよね。多くの科学者が世界中で取り組んでいるわけなんですけども、そこを取り組まないと生命とか社会というものを考えることが出来ないのではないか。つまり一瞬一瞬で切り取っていくだけではダメなんじゃないか。ある目的をもって、例えば映画を作るという目的で必要がない人をそげ落としていくのは簡単かもしれないですけれども、組織とか特に日本社会とか言ったときに、切り捨てられない部分がたくさんあるわけで、それをどうやって、いかに活性化… 活性化というと作為的な感じがしますけども、みんなが生き生きとして、ダメな時もあるけれども、波はあるけれども、ダイナミックに社会がちゃんと続いていくかと考える場合に、そういうマネージメントというか複雑系といった見方が重要になるのではないかと思うんです。」
宮崎「あの、複雑系のシミュレーション… 深層回路とか気象の変化とか、クレーターに彗星がぶつかってどういう衝撃波が広がったとかを見ると、『オー』と結構楽しむ方なんですけども(笑)。そういうことと、人間をどういう風に見るかってのはちょっとやっぱり違うのではないかなと思いたい。」
ちょっと、話が変わり、井庭さんがなにやらノートパソコンを取り出してきた。井庭「ちょっと良いですか?」
宮崎「あ? 何か出てくるんですね。」
井庭「いえ、たいしたものではないんですけど。別に紙に持ってくれば良いようなものなんですけど。コンピュータ上に、これは簡単なイラストなんですけれども、人がいて、政府があって、企業があって、銀行があってというような形で、簡単にシンプル化して、この人たちがただモノを買ったり売ったりするのではなくて、実際に企業に行って働いていると。そういった形で全部作っていって、経済循環のようなものを作っていくとか。で、経済だけでは、意思決定の問題は扱えるんですけれども、どうしてモノが欲しくなるのかというのは扱えない。そうすると心理学を取り入れなければならないとか、それで情報の限界が、自分の理解の限界があるとか、情報が伝わっていくのに限界があるなら認知科学であったり、コミュニケーション論なども取り入れなければならないと際限なくいろんなことが広がっていくわけなんです。」
宮崎「こういうとき、例えばね、この都市はなんとなく(良い)天気が多かったとか、寒かったとかっていうのは入ってくるんですか?(笑)」
井庭「そういうのもいずれはね… 興味深いですけれども(笑)。なかなか…」
宮崎「結構、そういうのも大きいんじゃないかとも思うんですけどね。満月がよく見られた年だったのか…(笑) 分からないんだけど…」
井庭「最終的に何をやりたいかというと、地球環境とかのシミュレーションを人間を含めてやりたいという目標を持った上で、経済をまずモデル化しているんですよ。だからそういう気象とかも含めてということだと思うんですけれども。」
宮崎「要するに、ヴァーチャルリアリズムの究極なんじゃないですか。」
井庭「そうですね…」
宮崎「それは、やっぱり面白そうだけど、何か起こす人いませんかね? …違うのかな…」
井庭「そういう風には思いますね。必ずしも何百年というスパンを予測するということは出来ないと思うんですよ。ただ現実的な要請として、こういう政策を打ったらどうなるかというのを考えなきゃいけないとか、マーケティングをどうしたらいいんだと考えなきゃいけない上で一つのツールというか、一つの考えの土台になるのではないかなと思うんですよ。」
宮崎「そうするとね、人間というのは意識をもって行動しているつもりなんだけど、ほとんど意識ではなくて、ある種の行動パターンとか、確率で行動している生き物だっていうようになっていくでしょ。そうじゃない?」
井庭「でも、そこに動機とか意思みたいなものの方向性を持たせたいと…」
宮崎「それはそうだけど、その動機も意思も数量化するわけでしょ。」
井庭「そうですね。」
宮崎「その時に物凄いニヒリズムが発生しませんか?」
井庭「……」
宮崎「いや(笑)、とんでもない事言っているんですけども。要するに…」
井庭「難しいですね。」
宮崎「ええ、そうなんですよね。つまり、それを作っている間は面白い。人間というものを探求しているわけだからね。それがあるレベルになって、そうとう信憑性のあるモデルとなった時にね、所詮あなたはこの『点』なんだから、あなたこれを見て分かるだろうと。この間に結婚して、ここら辺で定年を迎えてってどこかの保険のおばさんがね、『あなたの人生結果』みたいなものを持ってきたことと(笑)、同じようなことに… それが最終目的になってしまわないかという不安が、知らないうちが華なのよという風に…」
井庭「そこまでなかなか行かないと…」
宮崎「行かないだろうとは思うんですけどね、でもそこまで行かないうちに、政治というのは利用しますからね、そういうものを。でしょ。例えばドイツで盛んに行われている自然保護運動の「ビオ・トープ」っていう小さな自然だけをつくる運動は、純粋主義ですよね、種の。種の純粋主義です。この地域は、この種が一番純粋で、一番いいんだと。だから侵入してくる植物、あるいは生物は排除すると。「ビオ・トープ」の人っていうのは、実は人種主義を生み出した元ですよね。それこそ、九州の木をもらって所沢に植えるのは… って所沢に住んでいるんですけどね。遺伝子がぐちゃぐちゃになるからやめろっていう… ではなぜ人間はいいのかということになる。九州の人間はこっちに来るなということになる。それは、ナチズムの生み出す元になったわけですよ。それだけは排除したけど、「ビオ・トープ」の人だけは残っているわけですよ。」
井庭「そういう利用もされる可能性は、全ての理論が悪用される場合はあると思うんですけれども、それよりもさらに良いことっていうのは、個性とか人々が違った目標を持って生きているというのがちゃんとモデルの中に組み込めるっていうのが一つのいいことではないかなと思うんですよ。」
実際の放送と若干異なる場合がありますが、会話の内容自体は変わっておりません。また、聞き取りが出来ない部分があったんですが、内容自体は分かると思いますので、その点はご了承下さい。