宮崎駿・井庭崇対論 NHK特番(1999年12月20日放送)

〜日本人はいまどこにいるのか〜(ラストアップ 2001.6.30)
『隙間の矛盾と次回作について』

井庭「例えば、個々の問題の間にある隙間、教育ではこうだけど家庭ではこう言っているといった、この隙間のところが見えてきて、じゃあ、その後どうするのかといったところが興味のあるところですよね。そういうのをどうしたらいいのかというのを、社会的にとか、個人が取り組んでいかないとどんどん破綻していくんじゃないかなあと思うんですよね。」
宮崎
「うーん… 例えばアフリカ象を一匹生かすために密猟者を追い払わなければならない。密猟者はそれで食っている。家族がいる、村がある。どうするんだといったら、とりあえず密猟止めましょうととなると、アフリカ象一匹とこの人間50人と、どちらが大事なんだよと天秤にかけるようになるんですよね。臓器移植についてもそうです。臓器移植の対象者がどうやって選ばれるんだろうと考えると、たまたまその病院にいた一番重い病状の人なのか。何歳までは臓器移植に値するんだけど、この人は年だから、寿命だからと放っておきましょうと誰かが選んでいるんだろうと思うんです。例えば、心臓移植しなきゃいけない人間が刑務所に入っているとしたら、その人間は優先順位が低くなるんだろうかといった… これ、ヒューマニズムっていう問題の根幹に関わりますよね。全然触れないでしょ? 触れたらやばいからですよ。そういうことは山ほどあるんですよね、僕らの日常の中に。それには触れてくれるなってのは。それは神様のせいだと決めて、そういうのに従えば整合性が出てくるんですけど、一応、法治国家の近代社会ではいろんな問題が起こる。そこら辺のウソがね、肥大化する一方なのが今の世の中なんじゃないかなと思う。
    だから、経済が膨張しているときは、何となくワサワサやっているから誤魔化しが利いているだけで、実はその時には十分拡大したんです、それが。だから今、まずくなったんじゃないんですよ。」
井庭「今、ボロが出てきたと。」
宮崎「だからツケを払っているだけなんですよ。僕はそう思っているんですけどね。だから当然だと思っているんです。個々の事件については痛ましいと思うんですけど、もう警告をする人はしていたんだと思うんですよね。耳に届いてはいたんだと思うんですよ。」
井庭「そういう隙間のウソというか、矛盾というのは根本的に社会は持っていると思うんですよ。それはずっと持ち続けると思っていて、僕とかも複雑系とかを学んでいく過程で、社会ってのは完全な状態というのはたぶん無い。パーフェクトな社会はなくて、不完全な状態からより良くみんなが生きていこうと模索しているというその過程がまさに社会のダイナミズムだと思うんですよね。そうした時にどうやって今の矛盾のある状態からより良く生きるのかっていうのは、みんなが元気なときというか、イノベイティヴであってクリエイティヴな時はある程度変化できると思うんですけど、僕たちの世代みたいに生まれたときから社会の基盤が出来ていて、だいたい枠ができてる、制度ができてる。そうするとフォロアーになる、イノベイターじゃなくて、それについていく追随者になるって形である程度教育されているわけですよね。」
宮崎「そうですね、はい。」
井庭「そうした中で、僕たちとか子供たちをどうやってイノベイティヴにするかとかクリエイティヴにするかというのが、社会に問われている課題だと思うんですよね。」
宮崎「それね、それ、多分僕らみたいな連中がね、こうすれば良いんじゃないかってやったら、若者たちは元気になるってものじゃないような気がするね。ハッキリ若者たちが、その世代を見捨てて『あいつらダメだ』と言ったときに、初めて出てくる事なんじゃないかって気がしませんか?(笑)」
井庭「そうですね… 今のある世界でやろうとすると、やっぱり過去の否定になってしまったりとか、なかなか大変なことになるわけですよね。」

井庭「そうした時代背景を元に、何か次の作品というのは何か関連したことをやるんですかね?」
宮崎「いや(笑)、別に僕は日本の政治の方向を変えるために映画を作っているわけではないですから。赤ん坊の頃から知っている知り合いの子供たちがいるんですよね。その子たちを観ていると、その子たち向きだといわれて作られている作品との間に、もの凄いギャップがあると感じるんです。例えば、僕が10歳くらいの女の子たちにみせようと作られている雑誌を読むとほとんど男の子たちとどうやって心を通わせるかという内容ばかりなんですよ。それしかないですよね。教室の中でどういう人間と出会って、出会っても半径5メートル以内ですよね。それに尽きているんですよ。面白くないから、子供たちが見なくなってますよね。だけどそういう雑誌を作っている人たちはそこから抜け出せないまま、キーワードはとにかく男の子でやっている。たしかに女の子たちと話すと、男の子に対する関心は持っているけれども、もっと大事なことに彼女たちは気づいたり、関心を持っているのに大人の社会は答えようとしていないなあと… そういうところに詰め寄れるタッチの映画を作れるのかというのが僕らのテーマです。今、子供たちがぶつかっている問題はなんだろうというような… それに対して大人として答えられる作品が作れるか、それがただ別に難しい問題提起ではなくて、本当にその子たちが信用してくれる大人になれるのかっていうところで映画を作ろうという気になったんですけど…」
井庭「今のこの時代の子供たちがどういった問題を抱えていると、見ていて思われますか。」
宮崎「今の時代は、今の時代風の装いをするだけで、子供たちは常にそうだと思うんですけど、それは僕らの世代もそうだったし、多分江戸時代も室町時代もそうだったと思うんです。『生まれてきて良かったのだろうか』と。その一点だろうと思うんですよね。本人たちがそういう言葉で問題意識を持っているのかどうかというのは全然別なことですよ。でも、基本的に一番要になっているのはそれだと思うんです。
    10歳くらいに額にはんこを押されているんですよ。『あなたは学問社会ではダメです』『頭を使う仕事はダメです』というふうに成績順に押されているんです。取り返しがつかなくなるから、今頑張りなさいという言い方をいつもするんだけど、どんどん刻々と取り返しがつかなくなってるというのを思い知らされているんですよね。で、第一志望でずっと行っている人は少人数いると思うんですけど、それはそれで別な問題が発生していると思うんですけど、アンタは第三志望もダメだよというところにいっぱい子供たちが置かれているんですよ。一方で、肉体の商品化っていうマーケットはずっと行われているでしょ。結局脳みそでダメなら、身体で勝負するしかないんですよね。そうすると、これはコンパニオンになって玉の輿に乗るぞといった人たちもいるかも知れないけども、それも少人数ですよ。それももの凄い早い段階で識別がつくんだと思うんですよ、子供たち自身が。要するに『美人だねぇ、かわいいねぇ』と言われ続けたか、『元気だねぇ』と言われ続けたかの違いですよね。そういう風な選別はもう10歳で済んじゃうんです。過酷なものだと思うんですよ。その中で生きて行かなきゃいけないですから。その時にね、残っているのは『若い』ということだけじゃないですか。ミニスカートが流行るのは当たり前なんですよ。今の中学生たちがコギャルと言われて…そういうのかどうかも知らないですし、僕も何かあまり出会いたいとは思っていない人間ですけど、でもそういう人たちを見るともの凄いニヒリズムがその中に感じて、ジタバタしなきゃならなくなっているからこういう風になるんだろうなあと思わざるを得ないですよね。
    それは、それを誰がやっているんだというよりも、それを言っている大人たちも同じものに侵されているんだっていう。それは、僕が侵されていないから言っているんじゃなくて、僕もしょっちゅう侵されているんですよ。『この人、何のために生きているんだろう』とか、『僕も何のために生きているのだろう』っていうことについて、ホントに途方に暮れることは何度も経験しているんで。そういうことが蔓延している世の中なんですよね。この同じ時代に同じ空間の中で生きていることによって、何か一緒に動いているエーテルのようなものが人間同士の中にあるのだろうという風に思っていますけども。そういうエーテルが、変な方向のエーテルが今、増えていることをもの凄く感じますね。もの凄いニヒリズムが政府以下、経済界にも蔓延している。何かといったら、返せない借金をしているでしょ。返す気は無いですよ。返す気無いから、罪滅ぼしにばらまいているんですよ、ね。徳政令と同じでしょ。室町幕府と同じですよ、今の政府は。今持っている膨大な赤字公債は少しくらい景気が良くなっても返せないですよ。返す方法はただ一つ、悪性インフレでしょ。戦争しかないですよね。僕が今感じているのは、戦争はしたいとは思っていないけど、戦争しか無いという気分がどんどん増えていることです。そういうような政治思想を持っているとか、主張を持っているということではなくて、いろんな人と話していると、もうそういうところに、そういうニヒリズムの中にこの民族のオジさんたちはいつの間にかハマっている。自分なんかもそういうことをいっていることに気がつくんですよね。これは実際には数人の人間たちが出会って話しているうちに何となくそういう気分があるなという気がしているだけなんだけど、僕自身は日本という社会の底流の中にそれがあると思うんですよ。何かどこかで舵を切る必要が出ているのに、何かつまらない方向につまらない方向に舵を切っているなあという感じがします。」
井庭「何か特定の目的を持っている時、例えば高度経済成長とか持っているとみんなガッと力を注いでできますけど、そこら辺を今、問われているんじゃないかなあと思うんですよね。」
宮崎「一見、目的的(もくてきてき)に生きていくこととか、何かを達成しようとしてそれに自分の人生を賭けるだとか、それをやったら自分が実現するんだとか、そういうくだらない錯覚をばらまきすぎたんですよね。僕は味わったり感じたりすることが、人生の、あるいは生きていくことの非常に大きな部分を占めて良いのではという疑念を持っているものですから。自分はこんな仕事をやっちゃったものですから、何を作らなければならないということにしょっちゅう鞭打たれて、自分に鞭打って、周りも鞭打ってね、巻き込んで酷い目にあって生きているんです… ただ、全員が目標も持つんじゃないんだということなんです。それが分からなければいけないんです。目標を持つか持たないかということで分けちゃうからいけないんで、ある瞬間には目標を持つけど、その他は忘れて『今日はいい天気だなぁ』とボーとっしていると。そういうものが混ざって一人の人間ができていくんだって考えれば、自己実現のためとか表現のためだとか、ワサワサと活動しているのが善だという考え方、それはやはりおかしいよね。」
井庭「複雑系として社会を見るときに、組織の中でも、目的を持ってある程度達成するんですけども、個人はある程度の自由度を持って、自分はこう思うからこうしてみてはどうかとどんどん手法を取り入れていくとか、やり方を変えていきながら、でも全体としては整合性が取れている。そういったのが組織のモデルとして出てくると思うんですよね。それで目標を持つときもあれば、持たないときもあるということですよね。」
宮崎「ええ。あのお祭りを上手くやろうっていうんでね、村中が盛り上がってワーってやる時は生き生きするんだけど、終わったらね、『面白かったね』『またやりたいね』と言いながら、しばらく何もやらないで、停滞できるっていうような生き方が、みんなそうだったら良いんでしょうね。」

    実際の放送と若干異なる場合がありますが、会話の内容自体は変わっておりません。また、聞き取りが出来ない部分があったんですが、内容自体は分かると思いますので、その点はご了承下さい。

 

前のページへ 表紙に戻る