大ヒット「もののけ姫」は失敗作だったのか?

    何をいまさらというタイトルかも知れない。でも、今の時期だからこそ考えても良いのではないだろうか。つい先日も日本テレビの金曜ロードショーにて「もののけ姫」が放映され、26.9%(2001年1月26日放送)という高視聴率を獲得した。別に多くの人が作品を鑑賞したから「良い作品」という訳ではないが、逆に多くの人々が観たことにより、たくさんの評価が下され、その評価が二分した。
    その分かれた評価に最も多かったものが、「素晴らしい映像美が感じられる作品」「自然と人間の関係を改めて考えさせられる作品」との良い評価。そしてその反対に、「難しすぎる」「子供向けではない」「感情移入できない」「メッセージばかりでつまらない」などの悪い評価。確かに単純明快な評価である。

単純明快さがそんなに良いのか?

    とりあえず、良い評価は置いておこう。悪い評価に焦点を当てて語っていこうと思う。
    まず「難しすぎる」といった評価である。これは「子供向けではない」というものと非常に似通った評価である。要するに「アニメーションは子供が観るべきもの」と言った視点で発せられた評価であろう。しかし『もののけ姫』よりも、もっと難しい映画は存在するはずである。芸術を追求する作品などには特に、であろう。確かに「アニメーションは子供が観るべきもの」という意見は正論である。宮崎駿もそう語っている。ただ、「難しい」と語っているのは大の大人である。そもそも「何が」難しかったのかがハッキリしない。おそらく話の内容が分かりづらかったというところであろう。確かに話を補完するような説明的な部分はかなり抜け落ちているし、映画の中での歴史、知識等、分からないことが多すぎたのは事実である。私自身も多くの資料等から知識を得て、物語を把握した部分もある。しかし映像をよく観ると分かってくる部分も多くあるはずである。多くの場合、映像の見落とし等で分かることも分からない場合が多いのだ。基本的に宮崎はアニメーターであり、「説明的なセリフを聞いた瞬間、その映画は観たくなくなる」という発言をしているため、映像に重きを置いた情報を提供しているのである。その量が多いために整理しきれない部分も否めないが。
    ただ、話の筋としては分かりやすかったのではないだろうか。「主人公が自分の呪いを解くために旅に出て、自然と人間との争いを目にする。何とかその中を取り持とうとしたが失敗してしまい、多くの自然を失ってしまい人間も疲弊するが、お互い傷つきながらも前を向いて生きていこう」という話だろう。確かに途中に、サンとアシタカが惹かれあう部分や、タタラ場と地侍との小競り合い、森の神々の間での争い、人間と森の神々との争いなど、さまざまな要素が含まれ、確かに複雑というと複雑であるが、でも結論はさほど難しくないのではないだろうか。この件で私自身の意見を言うならば、どうも日本全体がアメリカナイズされてしまい、「単純明快」なものを好むようになってきているような気がする。徐々にではあるが、何か「考えること」が億劫になっているのではないだろうかと思うが、これは単に個人的な考えであり裏づけできるデータも何もない。

    次に「子供向けではない」との意見である。宮崎自身、製作中は「子供の観る作品ではない」と発言しているが、映画の公開時には「恵まれていないと子供たちが本能的に感じている。だから子供にこそ観てもらいたい。」とその意見を180度転換させている。その考えの変化については知る由もないが、確かに前述したように、難しい作品である。ただし、ここでも一つ、勘違いしてもらっては困ることがある。「映画を鑑賞する」というのは、「映画の内容を理解する」というだけのものではない。「映像を観て感覚的に感じ取る」ものでもあるはずである。だから映像だけを観て、「凄い」とか「可愛い」「怖い」「楽しい」などの感覚を味わうだけでも良いのである。多くの人は映画を「自身を感情移入させて、映画の内容を自分なりに消化させよう」というものであると決め付けすぎているのではないか。だから『もののけ姫』を子供向けではないと決め付けてしまった、そう考えられる。それは大人からの一方的な見方なのであって、子供がどう感じ取るかはまた違ったものになるのではないか。

「感情移入出来ない=面白くない」?

    そして「感情移入できない」という批評である。また前述のとおり、「映画は感情移入するもの」との既成概念がある場合、感情移入できないと「この映画は面白くない」という結論になってしまうのは当然である。確かに、私自身もこの映画を語る場合には『面白くない映画である』というのを前提にしている。確かに映像美、世界観が素晴らしいと私自身感じているが、「楽しい」とか「面白い」と思うような作品ではないと思う。要するに、自分自身何を感じて、何を思ったのかを改めて考えさせられる映画なのだ。だから私はついでに言うのである。『面白くないが、考えさせられる作品だ』と。また、「感情移入できない」という点は、おそらくであるが主人公アシタカともののけ姫サンとの恋の行方がさほど描写されなかったために生じたものではないだろうかと思う。確かにこのふたりとのラブシーンを望んだ観客も多かったろうということは想像に難くない。確かに惹かれあう男女としての描写は足らなかったかも知れない。というより作品全体に人々との関わりの部分が浅いような気がする。キャラクターとしては立っている人物が多いのだが、人との関わりはそんなに多くない。人々との関わりを描く映画ではないからそうなったのかも知れない。ただそういう描写が欠如していたとはいえ、感情移入できない映画は面白くないものだと決めつけるのもどうかと思う。この辺は確かに個人の嗜好や受け取り方の問題ではあろうが、自分が面白くなかったからダメな映画と決めつけるのは非常に短絡的過ぎるだろう。

    最後に「メッセージばかりでつまらない」というものである。確かに映画の中で人間と自然との関わり方についての問題提起がなされている。ただ「人間は○○しなければならないのではないか」と言ったメッセージばかりが映画中にあったとは考えにくい。確かに一部では「説教映画」という見方もある。その指摘は拭いきれないものもある。しかし映画自体にメッセージ性、テーマ性が無いものっていうのは映画として存在しうるものであろうかと思う。メッセージ性、テーマ性というのは映画の核であるはずだ。「人間と自然の関わり方」しかり、「男と女の恋について」しかり、「これからの生き方について」しかり。それ無しでは映画としての存在意義が無くなってしまうのではないだろうか。ただこれまでの宮崎の作品には環境問題を問うたものが数多かったこともあって、それまでの経過から「メッセージばかり」という側面も出てきているのかも知れない。

作品を語ることができる者

    ここまで、否定的な意見に対する反論的なことを書いてしまった。確かに私自身、宮崎ファンであるため、そうなってしまったというのは否定しない。そう、ここのテーマは「大ヒット『もののけ姫』は失敗作だったのか?」であるはずである。ただ個々それぞれが「失敗だった」「成功だった」と語るのは簡単である。自分の好き嫌いを基準にすればいいだけの話なのだから。そう、映画とはどうしても判断の基準が観客の嗜好であり、どこをどう理論的に私が語ったところでこれも私の主観的な考えから生まれてくるものなのである。アカデミー賞にしろ、ヴェネチア国際映画祭にしろ、基本的に主観的な考えから評価されており、より多くの人が「良い」と感じた作品が良いと判断されるものなのである。こういうものは、確かに仕方のない部分ではある。でも、一つだけ言えることがある。自分自身が「つまらない」と思ったものが失敗作と考えるのはあまりにも短絡的過ぎるということだ。他の人間がどう感じるかは分からないのだから。唯一、映画について「成功」「失敗」を語ることが出来るのは、作った監督本人であろう。

参考ホームページ
『もののけ姫』批判記事の分析の反批判(叶精二)(http://www.yk.rim.or.jp/~rst/rabo/miyazaki/han_hihan.html)
    この記事は確かに理路整然としているが、基本的に作品が嫌いな人間にとっては、どう反論されようが、『嫌いなものは嫌い』なのである。でも的を得た反論である。

プリンセス・モノノケの功罪(http://www.gbs-np.co.jp/main/inter/mononoke_kaigai_j.htm)
    この『もののけ姫』への批判は一部、的外れ的な部分もあるが、非常に論理的な批判であり、なるほどと思わせる節もあった。かなり深く突っ込んだ評論である。

(2001.02.12 初校)

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