宮崎駿・井庭崇対論 NHK特番(1999年12月20日放送)

〜日本人はいまどこにいるのか〜(アップ第1回目)
『ラーメン屋と複雑系』

井庭「僕が宮崎さんの映画作品に初めて出会ったのは、中学の時に『天空の城ラピュタ』を映画館に見に行ったのが始まりなんです。その後、『ナウシカ』の映画とかあるいはマンガを読んで、その後は順次リアルタイムに観てきたんですけれども。アニメの世界というのは凄いですよね。作るときというのは全く何もない所から全て決めて行くわけですよね。木とかもそうですし、人とかも…」
宮崎「いやそれはね、もうみんな、記憶を山ほど持っているんですよ。あのロケハンなんて打ったって記憶を喚起させるだけであって、そこで新しく取り上げて書こうっていったってそれは無理があるんで。たとえば外国にロケハンに行く場合でも、外国に対する知識とかそういうモノは自分の中に、特に日本人みたいな民族はいろんな外国の映画を観てますから、そういうモノは出来上がっているんですね。それをそのまま再現するんじゃなくて、自分の記憶とすりあわせて、どこか子供の時出会ったはずのどこかの道の踏んだときの感じとか、そのときの草むらの感じと、それとその外国で見てきたものが融合して、本当にあるものとして描くようになっちゃうですよね。だから、あまり難しいことではないんですよ。その辺が持っている風景もストックとか、流用とか、このなか(宮崎さん、自分の脳みそを指しながら)に入っているんでしょうけど、脳細胞の中にね。どういう形でストックされていて、どういう風な検索の仕方で出てくるのかっていうのは、もの凄く面白いなあと思うんですけどね。たとえば、美しい夕焼けを描くなんて時に、自分がどういう夕焼けを持っているかによって決まるんですよね。これは本当に面白いんですけど、持っていない人間はどこかのアニメーションで見たような夕焼けを描くんですよ。あるいはテレビで見たような夕焼けを描くんですけど、自分が郷里で育って、郷里で何度も夕焼けを見てきた人間っていうのは特有の夕焼けを持っているんですよね。僕もね、これはよく話をするんですけど、新潟県の出身で海辺に暮らしていたやつが美術をやってね、南海の夕焼けを描いたんだけど、何か空気が濁っているんですよね(笑)。これ、南海の夕焼けかなと思ってね。その作品が終わってから、何年か経ってからそいつの田舎に遊びに行って、海で夕日を見ていたんです、みんなでたばこ吸いながら。そうしたら、そっくりの夕焼けが出てきたんですよ(笑)。そいつは、子供の時から夕焼けといったらそれを見ていたんですね。それをいつまでも描いているんです。美術の人はね、どこに座ったか、どういう風景を見てきたかっていうのがもの凄く大切ですね。」
井庭「あの、新人というか、結構若い世代の背景を描くような人っていうのは、やっぱり経験が違いますよね、全然。」
宮崎「全然違います。」
井庭「そういう人っていうのは、感じられますか。」
宮崎「いや、もう、だから… いや、むしろそれはね、経験の違いっていう問題よりも、その人間の才能ですね。だから、どういう形であれ、風土性を持っている人が美術になるべきだと僕は思っているんですけど、風土性を持っていれば、それが世界に対する手がかりになるんですよ。だから、一番ダメなのは、アニメーションが好きで、ずっとアニメーションの美術にあこがれてアニメーションの映画をいっぱい観てきた人間ってのがたぶん何も学んできていないんだと思うんですよね。」
井庭「今、研究が社会シュミレーションを作るという、コンピュータ上に仮想の社会を作るっていうのをやっていまして、その関係で宮崎さんがアニメ制作に取り組む際の、アニメーターに対する言葉であったりとか、こういうことをやっているんだと書いてあるものを読んでいると非常に何か、近いものを感じたというか、これは物づくりという点で共通点があるじゃないかと思いまして、そこら辺も非常に興味がでてきたんですね。」
宮崎「映画を作るということは特別なことではなくて、たぶん家を建てたりなど、何かそのようなこととほとんど同じことなんだろうと思いますね。だから、ラーメン屋さんがね、毎日同じ味を維持していくっていう努力と、それから映画を一本作り上げていくって努力と、どこかで似ているんだろうなっていう風にこのごろは思うんです。若いときは、創作的な仕事だから格別な意味があるのではないだろうかと思ったことはあるんだけど、まあ、そんなことはないなとこのごろ思っている物ですからね(笑)。井庭さんの方がね、僕らの映画作りと専門をなさっている複雑系というのと、どういう関わり合いを持って興味を持たれたのか、本当のことをいうとそれを聞きたいと思って来たんですよ(笑)。」
井庭「そうですか(笑)。複雑系というのは、生命とか知能とか社会っていったものを、非常に分解していって理解できる物という考えではなくて、丸ごと生きている物としてとらえていくという考えを元に進められている複雑系科学というものがあるんですね。たとえば僕たちの身体は、非常に化学反応がたくさん連鎖して、ずっと生きているわけですけれども、それが止まってしまったら物質的には全く同じなのにそれが死んでしまっている状態になるという、それが凄く絶妙な形で組織化されていると、それを丸ごと捉えていかなければいけないんじゃないかっていうところで、複雑系科学が出てきているんですね。その中で、取り組みとしまして、分解して理解できないためにどうやっていくかというと、コンピュータ上にその『絶妙な仕組み』というのをモデル化して作っていこうと、実際の生物を観ながらそれをコンピュータ上にここが本質じゃないかというのを作っていく、あるいは社会のここが本質ではないかというのをコンピュータに作っていくと。で、そういうのをやっていくと徐々に作りながら、こっちの対象自体が理解できていくという、そういうプロセスになっていくわけですね。そうした時に宮崎さんが映画作りにおいて、後半のラストの部分を決めないで実際に作業に入っていってっていう話が書かれていたのでそこら辺が凄く面白くて、実際に作っていく時というのはどういう風に作られるのかというのが興味があるんですけれども…」
宮崎「つまり、はじめから最後が見通せる内容を作るなら、そういう作り方があるんだと思うですけれども、見通せないような素材を選ぶようになっちゃった物ですから。それで、そうなっちゃっただけで、人には勧めていないんです。やらない方が良いって(笑)。それは辛いぞって(笑)。」

    実際の放送と若干異なる場合がありますが、会話の内容自体は変わっておりません。また、聞き取りが出来ない部分があったんですが、内容自体は分かると思いますので、その点はご了承下さい。

 

表紙に戻る 次のページへ